2009年06月26日

迅速な攻略

2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らうが制圧。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダッドで合流して突入、これを攻略した。この攻略に際して米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとの情報を出し、バグダッド市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などが進攻部隊攻撃のため市内を出たところ空爆によって大半が破壊された。これは市内での空爆の困難さからうまく市街地の外に戦車などを出す戦術ともいえる。

合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは戦争開始前後から積極的にメディア工作をおこなっていたサッハーフ情報大臣がバグダッドの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。

学力向上!漢字王国
白い花の花言葉
北の国・北海道マップ
暮らしの知恵袋
ラファエロのタレントになる学校選び
ハンズの野球のツボ
マーメイドの地図探し
ゆかいな塾の先生
炎神でアニメソングメドレー追跡
懸賞の秘密ちゃんねる
健康一番玉手箱
Carタイムへ急げ
芸能界デビューのチャンス
ひだまりの湘南ビーチ
奥様ご用達ご当地グルメ
仕事探しはここからスタート
初心者の投資問題解決!
姉妹の温泉三昧
フラッシュのオーディション参加
省エネルギーのコツを紹介
生活費の節約法
ドライブ計画サポートスペシャル

投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとした。

これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイル(圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの)と対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。

この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。同長官はかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。

2009年06月10日

スケトウダラ(介党鱈)

スケトウダラ(介党鱈)またはスケソウダラ(介宗鱈・助惣鱈) Theragra chalcogramma は、タラ目・タラ科に属する魚。北太平洋に広く分布するタラの一種で、重要な漁業資源となっている。

最大で全長91 cm、体重1,400 g に達する。マダラよりは小さい。背中側の体色は褐色で、まだら模様が繋がった2本の縦帯模様がある。腹側は白色。タラ類に共通の特徴である、3基の背鰭と2基の臀鰭(しりびれ)をもつ。外見はマダラやコマイに似るが、スケトウダラは目が大きく、下顎が上顎より前に出ており、口ひげはほとんど目立たない。

一般にスケソあるいはスケソウとも呼ばれ、その名の由来には諸説があるが、一説に、佐渡の近海で多くとれることから、「佐・渡」を「スケ・ト」と読み替えたことからこの名が生まれたという。地方によりさまざまな呼び名があり、新潟県で「スケトウ」、「ナツトオダラ」、「ヨイダラ」、富山県で「キジダラ」、「キダラ」、「シラミダラ」などと呼ばれるほか、「メンタイ」「ミンタイ」などと呼ぶ地域もあり、「明太子(めんたいこ)」の名はここから来ている。また、2,3歳くらいの未成魚を「ピンスケ」、それより小さいものを「マゴスケ」などと呼び分けることもある。学名の Theragra chalcogramma は、「オットセイのえさとなる真鍮色の模様」という意味をもつ。朝鮮語では「ミョンテ」(??、明太)、ロシア語では「ミンターイ」(минтай)と呼ばれる。

日本海・茨城県以北の太平洋沿岸・オホーツク海・ベーリング海・カリフォルニア州沿岸まで、北太平洋に広く分布する。

水深500 m までの沿岸や大陸棚斜面の海底近くに生息する。最も多いのは水深200 m 前後だが、浅場や海面近くに現れることもある。肉食性で、貝類、頭足類、甲殻類、小魚などいろいろな小動物を捕食する。産卵期は1月-3月で、分離沈性卵を産卵する。
日本映画
バレエ
結晶学
ビリヤード
栄養ドリンク
キンボール
少子化
動物園
アレルギー
関東
為替レート
おつまみ
歌舞伎
運送
自動車工学
鳥インフルエンザ
サーフィン
薬膳
カバディ
高齢出産

底引き網や延縄などで漁獲される。スケトウダラの場合は身よりもむしろ卵巣が珍重され、塩漬けにしたたらこや唐辛子を加えた辛子明太子が作られる。また、精巣も白子として利用される。身は棒鱈に利用されるが、新鮮なものは鍋料理などにも利用できる。他には魚粉くらいにしか使われていなかったが、現在では魚肉練り製品に加工する需要が多い。

ただしスケトウダラはほとんどの場合寄生虫を保有しており、内臓・筋肉ともに生食は危険である。アニサキスの一種はスケトウダラを中間宿主としているので、その幼体が多く見られる。アニサキスは人の体内では成長・繁殖は行わないものの、虫が消化管の上皮組織に侵入すると激しい腹痛や嘔吐などの症状が現れる。生のスケトウダラを食べる場合には事前に十分に加熱するか、凍結(摂氏-20度以下で24時間以上)させることが必要である。他にニベリニアなども多い。

2009年06月07日

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父、上杉重顕を祖とする家で、重顕の養孫顕定のとき関東に下向し、重顕の兄弟上杉憲房の諸子から出た諸上杉家と同じく鎌倉公方(関東公方)に仕えて鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ヶ谷)に居住したことから扇谷家の家名が起こった。

扇谷家は、他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する家格をもったが、事実上の宗家である山内上杉家が関東管領をほとんど独占したため室町時代の前半にはさほど大きな勢力をもった家ではなかった。上杉禅秀の乱では鎌倉公方、永享の乱では山内家の管領上杉憲実にと勝利した側について活動している。
脱毛 分譲 クレジット 健康 葬儀 抜け毛 雑貨 学習 サプリ 家庭教師 特産物 フレグランス 旅館 プチ整形 フランチャイズ 出会い 就職 リフォーム 介護 冠婚 アレルギー 園芸 通信教育 スポット 学習指導 交通地図 コスメ 起業 ネイル 内職 仏具 アレルギー エージェント 引越し 介護 不用品 アレルギー 生活雑貨 英会話 水族館 公園 観光 フレグランス 信託 プチ整形 興信所 防犯 アレルギー 運勢 マッサージ


15世紀後半の上杉定正のとき、扇谷家は南関東を支配する大大名へと成長、山内上杉家をしのぐ勢力に拡大した。この成長には武蔵に江戸城、河越城、岩槻城などを築城した家宰太田道灌の補佐によるところが大きかったが、のちに定正は太田道灌を糟屋館で謀殺した。道灌の死後、扇谷家は山内家とたびたび抗争する。軍事に秀でていた定正の存命中はこれらの圧力を跳ね返す力もあったが、ほどなく定正も死去したことにより扇谷上杉家の勢力は下降に向かう。さらに16世紀に入ると領国相模は伊豆国に興った新興の後北条氏に次第に切り取られて支配権を失っていった。これに対して当主・上杉朝良は山内家との対抗上、後北条氏及びその主家であった駿河今川氏の軍事支援を期待して積極的な対応策を打たず、1516年には相模における扇谷派の重鎮・三浦氏の滅亡を招いてしまう。

やがて後北条氏は武蔵への侵攻を開始し、扇谷家は上杉朝興のとき江戸城を奪われた。朝興の子上杉朝定は山内家と和解して後北条氏との戦いに臨むが、1546年、河越夜戦で戦死し、扇谷上杉家は滅亡した。

扇谷家の名跡は一族の上杉憲勝が継ぎ、1561年、上杉謙信によって武蔵松山城の城主に据えられるが、1563年に後北条氏に降伏した。その後の動向は詳らかではない。なお、山内上杉の名跡を継ぐ米沢藩の当主、上杉綱憲の実父吉良義央は扇谷家の血統を引いているため、それ以降の上杉家にも扇谷上杉の血統は残っている。

2009年04月23日

ヨーロッパの祖母

ヨーロッパの祖母(ヨーロッパのそぼ)とは、

アリエノール・ダキテーヌ(1124年-1204年、フランス王妃ついでイングランド王妃)
ヴィクトリア女王(1819年-1901年、イギリス女王)
などを指す呼称。子孫がヨーロッパ全土に広がるところから、そう呼ばれた。特に2.は、その最盛期にはヨーロッパの王侯の半数が孫や曾孫というビッグ・ファミリーを形成した。
フランス王ルイ7世との間の子女として2女がいる(夭折は除く)。

マリー(1145年-1198年) - シャンパーニュ伯アンリ1世妃
アリックス(1150年-1183年) - ブロワ伯ティボー5世妃
イングランド王ヘンリー2世との間の子女として4男3女がいる(夭折は除く)。

ヘンリー(1155年-1183年) - 1170-1183年にイングランド王(父王と共治)
マティルダ(1156年-1189年) - ザクセン公ハインリヒ(獅子公)妃
リチャード(1157年-1199年) - イングランド王(獅子心王)
ジェフリー(1158年-1186年) - ブルターニュ公ジョフロワ2世
エレノア(1162年-1215年) - カスティーリャ王アルフォンソ8世の王妃
ジョーン(1165年-1199年) - シチリア王グリエルモ2世の王妃、のちトゥールーズ伯レーモン6世の妃
ジョン(1167年-1216年) - イングランド王(欠地王)

リフォーム・仏具関連生活雑貨情報
抜け毛・薄毛・ハゲ治療関連医学百科サイト
菜園・おもちゃ関連オンライン通販サーチ
生涯学習・通信教育関連学習らんどサーチ
特産物・観光関連観光スポット情報
やせる・インプラント関連コスメグッツリンクサイト
ネットビジネス・資産運用関連おまかせビジネス情報
介護・レストラン関連よくばり生活情報
包茎・ハゲ治療関連健康百科COM
おもちゃ・不用品関連ショッピングスタジオサーチ

アリエノール・ダキテーヌの子孫
アリエノールはイングランド王、フランス王、神聖ローマ皇帝、シチリア王、エルサレム王という豪華な子孫たちを持った。もともとフランスの南ポワティエの女相続人で、フランス王家よりも富裕であり、王妃になるのは当然だったが、ルイ7世が凡庸なのでイングランド王位継承権を持つ11歳年下のヘンリー2世と再婚した。しかし夫の浮気が発覚して対立、息子たちを味方につけ、親子戦争の果てに息子リチャード獅子心王が王位を継いだ。

アルバート公との間に4男5女がいる。

ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(1840年 - 1901年) - ドイツ皇帝フリードリヒ3世妃
エドワード7世(1841年 - 1910年) - イギリス王
アリス・モード・メアリ(1843年-1878年) - ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃
アルフレッド・アーネスト・アルバート(1844年-1900年) - ザクセン=コーブルク=ゴータ公、エディンバラ公
ヘレナ・オーガスタ・ヴィクトリア(1846年-1922年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子フリードリヒ・クリスティアン・カール夫人
ルイーズ・キャロライン・アルバータ(1848年-1939年) - アーガイル公ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人
アーサー・ウィリアム・パトリック(1850年-1942年) - コノート公
レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン(1853年-1884年) - オールバニ公
ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア(1857年-1944年) - バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ妃

ヴィクトリア女王の孫

ドイツ皇后ヴィクトリアの子女
フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルベルト・ヴィクトル(1859年 ? 1941年) - ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
ヴィクトリア・エリーザベト・アウグステ・シャルロッテ(1860年 ? 1919年) - ザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト3世妃
アルベルト・ヴィルヘルム・ハインリヒ(1862年 - 1929年)
フランツ・フリードリヒ・ジギスムント(1864年 - 1866年)
フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ・ヴィクトリア(1866年 ? 1929年)
ヨアヒム・フリードリヒ・エルンスト・ヴァルデマール(1868年 - 1879年)
ゾフィー・ドロテーア・ウルリーケ・アリス(1870年 ? 1932年) - ギリシャ王コンスタンティノス1世妃
マルガレーテ・ベアトリス・フェオドラ(1872年 ? 1954年) - フィンランド王カールレ1世(ヘッセン選帝侯家家長フリードリヒ・カール)妃

イギリス王エドワード7世の子女
アルバート・ヴィクター(1864年 - 1896年) - クラレンス公
ジョージ5世(1865年 - 1936年) - イギリス王
エドワード8世、ジョージ6世、ヘアウッド伯爵夫人メアリー、グロスター公ヘンリー、ケント公ジョージの父。
ルイーズ・アレクサンドラ・ヴィクトリア
ヴィクトリア・アレクサンドラ
モード・シャーロット・メアリ・ヴィクトリア(1869年 - 1938年) - ノルウェー王ホーコン7世妃
長男はノルウェー王オーラヴ5世(1903年 - 1991年)。
ジョン

アリス・モード・メアリの子女
ヴィクトリア・アルベルタ(1863年 - 1950年) - ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人
スウェーデン国王グスタフ6世アドルフ妃ルイーズおよびルイス・マウントバッテンの母。エリザベス2世の夫エディンバラ公フィリップの祖母。
エルンスト・ルートヴィヒ(1868年 - 1937年) - ヘッセン大公
アレクサンドラ(アリックス)(1872年 - 1918年) - ロシア皇帝ニコライ2世の皇后

アルフレッド・アーネスト・アルバートの子女
アルフレッド・アレグザンダー・ウィリアム・アーネスト・アルバート(1874年 - 1899年) - ザクセン=コーブルク=ゴータ公子、ケント伯
メアリー・アレグザンドラ・ヴィクトリア(1875年 - 1938年) - ルーマニア王フェルディナンド1世妃
ヴィクトリア・メリタ(1876年 - 1936年) - ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ妃、のちロシア大公キリル妃
アレグザンドラ・ルイーズ・オルガ・ヴィクトリア(1878年 - 1942年) - ホーエンローエ=ランゲンブルク侯エルンスト夫人
ベアトリス・レオポルディン・ヴィクトリア

2009年04月22日

歴史学

歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史的事実、及びそれらの関連を追究する学問である。

人間にとって、何かしらの物事の成り立ちや経緯・来歴を知ろうとするのは半ば本能的な行為である。それ故に過去に関する記述を残したり、或いは過去を知る為の技術は古代から存在していた(ヘロドトス、トゥキディデス、司馬遷など)。しかしながら、学問としての方法論を確立させた近代的な歴史学が成立したのは比較的新しい時代のことである。具体的にはルネサンスの時代に史料批判に関する技術の体系化が進められ(詳しくは史学史を参照)、17世紀以降に古文書学として成立した。

古文書学者でもあった歴史家レオポルト・フォン・ランケは、古文書学の史料批判法を歴史研究において重要視する事で実証主義的な歴史学(実証史学)を確立し、歴史学を科学の域に高めた。「ただ事実を記すのみ」としたランケの実証史学は欧州史学界に大きな影響を与え、今日の歴史学の基礎とされている。だがランケの手法は史実探求に厳正さを付加した一方で文献資料偏重ともいえる風潮を生み出し、後にアナール学派などから批判を受ける。その為、現在の歴史学では実証史学を基調としつつも、文献研究以外の方法(絵画、伝承、壁画、フィールドワーク、地理学、考古学など)も歴史を探求する上で重要な知見として尊重されており、次第に人類学的な性格を持ちつつある

過去を教訓として受け取る態度は古くから見られるものである。例えば、ニッコロ・マキャヴェッリの『リヴィウス論』はイタリアの黄金時代であった古代ローマの共和制の歴史を振り返ることで未来への教訓を見出そうとしている。しかし過去を安易に今日の基準でみることは過去を色眼鏡でみることになりかねないため、注意が必要である。例えば、今日戦争は悪であるとされているが、かつては紛争解決の最終手段として戦争は肯定されていた。自分の時代の価値観や倫理感を機械的に過去へ適用し、批判することは、しばしば歴史の実相を見誤ることになりかねない。

キャリ プラス 百目柿 コロッケ ピロー ビリア ブルース プレイパ ライブ 二輪草 タイム ミルク とまぴ こげちゃ だいせん おおば ダブル ネービ ヨハネ ほろば リル アイアール カレンシー がいせい ハイピッ にがうり トラップ フィス マロニ 紅い橋 プロイ みぎわ フォト モールド パンク メーク トリオ カバラ ライチー ハラム ギキョウ ナビリネン げきけい ブタノール スワン ナレッジ コクシ ディン トルコ マグレブ

研究法
歴史を振り返るのは人間の主体的な行為であり、各人の問題意識に従って課題(テーマ)が設定され、研究が行われる。自分の生きている社会に対して全く何の問題意識も持っていない人間には、歴史に対する問題意識も生まれてこないであろう。このことは、歴史研究が主観的なもので客観性がないという意味ではない。客観的な根拠を示し、論理的な考察を行うことで、他者を納得させられる研究が求められる。通常、歴史研究は先人から受け継いだ蓄積(研究史)があり、先人の業績を踏まえて研究を批判あるいは深化・発展させることが歴史学の目標になる。

史料批判
歴史学において史料批判は欠かせない作業である。史料批判とはその史料が信頼できるものなのか、信頼できるとしてどの程度信頼できるのかを見定める作業である。例えばある事件について、史料Aと史料Bが矛盾している場合、両方の史料の性格を考え、どちらが正しいか確定してゆく作業が含まれる。史料Aが事件から1年後の第三者による伝聞であり、史料Bは当事者の日記だとすれば、一般には事件に対して(時間的・空間的に)最も近い史料が確実なものと考えられるが、当事者の証言には(意識的・無意識的な)自己正当化が含まれることも多く、必ずしも真実とは限らないから、できるだけ多くの史料を集めて相互に批判検討を加えることが重要である。なお、伝聞であっても、その事件に対する世間での評価を含んでいるなど、史料として利用できる場合もある。

歴史書など既に編纂されている史料の場合は、著述者の立場により意図的な編纂が加えられている場合もある。例えば中国の正史(二十四史)は唐代以降、国家による編纂となったために、当代の王朝を正当化するために先代の王朝の最後の皇帝などが実際以上に悪く書かれる傾向にある。こうした史料を残した人の思想や信条、政治的状況、当時の社会状況を慎重に見定める事が必要である。

歴史観
歴史観とは上記の方法論によって導き出された様々な歴史的事象の関連性や構造を考察する上において、どのような要素を重要視しているかの違いを指す用語である。歴史的事象の間に関連を見出そうとする事は歴史学にとって重要な営みの一つだが、その際、論者の歴史観によって大きく見方や意見は異なってくる。此処では時系列順に主な歴史観を列挙していく。

古代ヨーロッパでキリスト教の影響力の元、神話上の出来事を史実として記す普遍史観が成立した。神学者アウグスティヌスの『神の国』のように、聖書(旧約聖書・新約聖書)をそのまま事実と捉え、天地創造 - アダム - ノアの方舟等を経てイエスが誕生し、現在があり、やがては最後の審判を迎えるという流れが存在する、中世にわたって支配的な歴史観であった。後の啓蒙思想の時代に否定されたが、歴史には一定の目的があるとする発想は後世にも大きな影響を与えている。
一方で中世における年代記は事象の相互関連を考察せず、ただ事実を列挙していくスタイルを取っている。「歴史観」を持たないこれらの書物を執筆した著者の関心は、戦闘などの特異な出来事や、華やかな祭典などに向けられている。
ルネサンス以降、自然科学が発達し自然界に多くの法則があることが証明されてくると、歴史の中にも何らかの法則があるのではないかという思潮が高まり、啓蒙思想の時代になると、歴史は法則に基いて無知蒙昧な時代から啓蒙の時代へと進歩してゆくという歴史観(進歩史観)が主流となった。
哲学者ヘーゲルは人類の歴史の世界史的発展過程により理性(絶対精神)が自己を明らかにするものと捉えた。これも進歩史観の一つである。
近代イギリスにおいて、歴史上の出来事を「進歩を促した者」と「進歩を阻害した者」という極端な二元論で解釈するホイッグ史観が成立した。歴史に法則的進歩が存在する事を前提としている為、後述する唯物史観同様、進歩史観から派生した歴史観の一つとして捉えられる。
歴史学者ランケは法則性の論証を優先して史実を乱雑に扱う進歩史観に反発し、その反動として徹底した実証主義的証明に基づく近代的な研究方法を確立し、歴史学を科学に高めた(実証史学)。ランケはヘーゲルらの歴史法則論を否定し、また法則性が求められた遠因とも言うべき実用性を至上視する学問の傾向に対して警鐘を鳴らした。
哲学者マルクスはヘーゲルの進歩史観を継承しつつ、思想や観念を歴史の原動力とした部分を批判、経済的な関係こそが歴史の原動力であるとした唯物史観を確立した(『共産党宣言』『資本論』)。また、生産力と生産関係の矛盾が深まると社会変革が起こると考えた。
社会学者・経済学者マックス・ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、人間の行動を規定するものとして宗教に注目し、宗教倫理と経済活動の関連を研究した。ウェーバーのこうした手法は、文化的な差異が歴史の進展にも差異が生じさせていることを明らかにした。また、ウェーバーは学問に価値判断(例えば社会主義が正しい、革命は必然的である等)を持ち込むことを厳しく批判した。
歴史学者アンリ・ピレンヌは経済史の側面から経済的要素が歴史に重要な影響を与える事を論証した。ピレンヌの研究は同じ経済を重要な要素として位置づけている点では唯物史観と一致しているものの、図式的な見方を拒否するなど一線を画した内容となっている。
20世紀に登場したアナール学派 (École des Annales) は社会学や心理学などの他の社会科学からの方法論を援用し、それまでの事件中心の歴史認識に対し、心性や感性の歴史、また歴史の深層構造の理解などマクロ的な歴史把握を目指した。また、アナール学派の台頭以降、個別の事件性や通史ではなく、農政史、出版史、物価史、人口史、経済史、心性史などの社会学的なテーマ史や、社会学、文化人類学、経済学、民俗学などの知見を取り入れる学際性を重視する傾向が見られる。
地理学者・生物学者ジャレド・ダイアモンドは『銃、病原菌、鉄』で地理的・生物学的要因が歴史を決定付けると主張、史学界に論争を起こした。
社会学者・歴史学者ウォーラステインによって提唱された世界システム論は、歴史は1つの国や社会で完結するものではなく、世界システムの過程から捉えるべきであるとしている。

歴史法則
近代において主流となっていた啓蒙主義や唯物史観においては、歴史はある法則に基づき一定の方向へ進んで行くものと考えられ、歴史法則の発見が主要な研究目標として掲げられた。しかし実証主義を基幹とする今日の歴史学では、基本的に一回性の連続であり、こうした普遍的・絶対的な歴史法則が存在するとする意見は否定されている。また仮に何らかの法則性が存在したとしても、歴史は人類文明に存在する全ての要素から構成されている極めて複雑な概念であり、その要素が全て解明されでもしない限り、普遍的法則を構築する事は困難である。ただ論者によっては緩やかな法則(傾向法則)であれば解明は可能とする論者も存在する。とはいえ法則のように見えるものは概ね一つの仮説に過ぎず、例えば唯物史観は正しいか、そうでないかということではなく、それが歴史的事象を的確に説明できる限りにおいて正しいものと考えられる。

客観性
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

現代史の困難さ
例えば古代ギリシア史やルネサンス史を論じる場合と自分の生きる時代を含む現代史を論じる場合とでは、後者に固有の困難さが生じる。現在の社会が抱えている諸課題が、現代史には生々しく反映されてしまう。例えば、第二次世界大戦のために多大な被害を受けた人々が多数生存しており、未だその傷は癒えていない。政治の駆け引きの道具としてそれが利用されてしまうことも多い。日本でも特に第二次世界大戦前後を巡る歴史認識について、いくつかの論争が起こってきたが、感情的なやり取りも見受けられ、客観的な評価を行ううえでの困難さが生じている。そのような事情をふまえながらも、事実や関連性を明らかにしてゆく努力が重ねられてゆくことは必要である。

学問的分類
日本の大学においては諸学問の基礎研究・古典研究の一環として各学部で其々の専門分野の歴史的研究が行われているが、特に文学部が歴史研究のみを専門的に行う史学科を設置しているケースが多い事から便宜的に人文科学に分類される。しかし経済学や社会学、社会人類学との関係性から社会科学への分類を妥当とする意見も存在し、統一した見解は得られていない。

一方、欧米では社会諸科学との親和性から社会科学に分類されるケースが多い(英語版wikipediaでも社会科学(Social sciences)とされている)が、此方でも人文科学と社会科学の何れに含めるかに付いて議論が重ねられている

2009年04月05日

化政文化

化政文化(かせい ぶんか)とは、文化・文政期(1804年?1829年)を中心とする江戸時代後期に発展した町人文化である。政治・社会の出来事や日常の生活を風刺する川柳が流行した。また、文学では、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のように、庶民生活を面白おかしく描いた、滑稽な作り話が好まれた。版画では、多彩な色彩を表現できる技術が向上し、そのような技術で作られた版画は錦絵と呼ばれた。江戸から発生し、商人などの全国的交流や、出版・教育の普及によって各地に伝えられていった。また、これに伴い、内容も多様化していき、庶民へと浸透していった。江戸時代前期に栄えた町人文化である元禄文化のときには、文化の中心は上方であったが、このころから文化の重心は江戸に移っていく。ただし、音楽における京流手事物や陶芸の京焼のように、上方で著しく発展を見たものもある。時代劇の舞台とされることが最も多いのがこの時代である。

恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ

2009年03月21日

初期車(基本番台・900番台)

量産先行試作車は900番台を付番され、1979年に12両が製作された。
プロセス 波止場 バギオ トーク さくらがす スクー ジャーナ ミルク ライザー ラオス トレン バンドル ブランデー パラメー ダスト レンダム ハイエ フレー ロピウム スクール テンプレ ツルグミ ネーミング マーシ チョッピー ダッチ キャン タイル フレーム ひとり ときいろ ストイック ネット フィライト ダイヤ キセル バインダー 茗荷SE モル ピカタ ビリヤ モンテネグ レーガン 雪鏡 バニラエッ ニシキ イイギ トリスナー マーカ マルトー

北海道内では長距離列車の運行体系を函館中心から札幌中心に転換する構想が具体化しつつあり、基本編成を7両、必要に応じ中間電源車を含む3両を挿入して最大10両編成とする運用方が採られた。特急気動車としてはキハ181系以来11年ぶりの新形式だったが、保守の省力化と信頼性の確保に鑑み、各部仕様は先行形式で実績のある構造を主軸に採用する方針が採られた[7]。

車体側面に非常時脱出用の非常扉を設け、客室窓は冷房故障時換気用の内傾式窓を片側2か所に装備する。機器用のハロン消火装置は 自動/手動の2系統を装備する。台車は DT47・DT48・TR233 の各形式を装備する。量産移行後、仕様を統一する量産化改造がなされて量産車と完全に混用されていたが、老朽や余剰のため2001年9月までに全車が廃車された。

量産車は1981年 - 1983年に4形式合計89両が製作された。車体は非常扉を廃し、[8]内傾式の換気用窓も結露の誘発など問題が多く廃止された。石勝線の長大トンネル対策として、新鮮外気取入装置の性能向上が行なわれ、外気導入ルーバーの形状が大型化された。車端ダンパは最高速度 100 km/h 程度では効果が得られず、量産車では廃止された。座席は配色を変更し、普通車はモケット・肘掛をロームブラウン(濃い茶色)、フレーム部をクリーム色に変更した。

駆動系の変更はないが、台車は軽量化された DT47A・DT48A・TR233A に変更された。消火装置は自動1系統のみに簡略化され、燃料タンクは使用距離を考慮して容量を削減した。1982年の増備車からは循環式汚物処理装置を搭載している。最高速度は 100 km/h とされたが、後に対応工事がなされ 110 km/h 運転を可能としている。

キハ183形
運転台をもつ普通車で、発電装置を収納する機器室を車体前位に設ける。トイレ・洗面所は設けず、定員は40名である。後位のジャンパ栓は両側に装備する「両渡り」構造で、方向転換が可能である。
試作車 (901 - 904)
1979年に4両が製作された。業務用窓は開閉が可能である。正面下部の排障器(スカート)は裾部に折り曲げ加工がなされる。
量産車 (1 - 20)
1981年から20両が製作された。業務用窓は固定式である。正面下部のスカートは裾部の折り曲げをなくし、簡素な形状である。
キハ182形
編成の中間に組成される、運転台のない普通車である。トイレ・洗面所を設け、定員は68名である。トイレ隣接の床上に水タンクを設ける。
試作車 (901 - 906)
1979年に6両が製作された。
量産車 (1 - 48)
1981年から48両が製作された。妻面と側面腰板部の通風口を大型化している。
キハ184形
運転台のない普通車で、発電装置を収納する機器室を車体後位に設ける。機器室は出入台と客室の間にあり、通路は片側に寄せられる。
試作車 (901)
1979年に1両が製作された。トイレ・洗面所を設け、定員は44名である。
量産車と定員や車体構造が異なり、1985年にグリーン車キロ184形(キロ184-901)に改造された。
量産車 (1 - 11)
1981年から11両が製作された。定員を確保するためトイレ・洗面所を廃し、定員を52名に増加した。機器室は長さを 290 mm 拡大したほか、横の通路配置を変更してデッキ - 機器室間の仕切扉を廃止している。
1985年に4両が運転台取付を行いキハ183形100番台に改造された。
老朽化および余剰により淘汰が進み、残存3両 (2, 7, 8) の2007年度除籍を以って全車が廃車された。
キロ182形
本系列のグリーン車である。室内の一部を供食設備として使用する。
試作車 (901)
1979年に1両が製作された。客用扉は車体の端部に設け、定員は40名である。
量産化改造時に車販準備室を拡大し、仕様を量産車と統一したが、客用扉の移設は行われなかった。2001年に廃車され区分消滅した。
量産車 (1 - 10)
1981年から10両が製作された。供食設備の大幅な拡充が行なわれ、コーヒーメーカー・流し台・電子レンジ等の調理・厨房用設備および売店が設置された。試作車で車端部にあった出入台は車体中央部寄りに移設され、荷物積込み口が新設された。客室の定員は32名に減少している。座席のモケットは紫系統の配色とされた。
1996年に5両がキロハ182形へ改造、2001年までに4両が廃車され、キロ182-9 の1両のみ残存する。

2009年03月06日

新大陸での最後の作戦行動 1781年-1782

1780年暮れまでの海軍軍事行動は一貫性のないものであったが、1781年になってある程度筋の通ったものになってきた。連合軍は西インド諸島やミノルカ島、ジブラルタルといった2次的な目標に方針を変えた。イギリス軍は、防御的な動きに専心した。オランダが連合軍に加わったため、イギリス政府は北海の通商を守るために他の方面から艦隊を割かざるを得なかった。8月5日にドッガーバンクでサー・ハイド・パーカーとオランダのズートマン提督の間で激しい戦いがあった。どちらも商船の護衛にあたっていた時のことである。しかし、オランダは戦争の行方に大きな影響を与えることはできなかった。連合軍は再度海峡でイギリス艦隊に戦いを挑んだが失敗した。彼らはまた、イギリスのジョージ・ダービー提督が4月に行ったジブラルタルやミノルカ島の救援を妨げることもできなかった。しかしミノルカ島はその後厳重に包囲され、1782年2月5日には降伏を余儀なくされた。フランスは西インド諸島とアメリカで積極策を展開し、東インドでもイギリスの優位を脅かす攻撃を始めた。

西インド諸島では、ロドニーがその年の早くにオランダ参戦の報を聞いて、1781年2月3日に戦時禁制品の大きな保管場所であったシント・ユースタティウス島を占領した。ロドニーは戦利品の確保と売却を独り占めし、最近着任した副将サー・サミュエル・フッドにも係わらせなかったとして告発された。フッドは、マルティニーク島に向かうと考えられているフランス艦隊の到着を阻止するために適切な対応を行った。フランスの提督、ド・グラスは増援部隊とともに4月に到着した。彼は7月までの間、ロドニーとの戦闘を避けながら、巧みにイギリス軍の島を脅かす戦術を取った。7月になると彼は北アメリカ沿岸部に向けて移動し、8月、健康を害して帰国していたロドニーに代わって指揮を取っていたフッドの後を追った。

北アメリカ沿岸では戦争は決定的な局面にあった。その年の前半はイギリス軍がニューヨークに、フランス軍がニューポートにあってにらみ合っていた。4月に、イギリスのアーバスノット提督が、ヴァージニアに増援を運ぶフランスの試みを阻止することに成功した。彼は4月16日にヴァージニアの沖合いで戦い(ヘンリー岬の海戦)、指揮は拙劣だったが主たる目的は果たされた。ジョージ・ワシントンはヴァージニアあるいはニューヨークのイギリス軍のどれか一つに攻撃を集中させようと切望していたが、それを実行するにはド・グラスの到着を待つ必要があった。フランスの提督は、ヴァージニア沿岸では海軍力で優位にたっており、イギリス軍の司令官コーンウォリス卿はヨークタウンで孤立していた。アーバスノットの後任、トーマス・グレイブス提督は西インド諸島からフッドの増援を受けてフランス艦隊を駆逐しようとした。しかし9月5日の不本意な戦い(チェサピーク湾の海戦)で彼は敗れ、フランス艦隊によるチェサピーク湾の占拠を排除することができなかった。ド・グラスは増援を受け取り、グレイブスは去った。ヨークタウンは10月19日に陥落し、北アメリカ沿岸での戦いは終わった。

フランスの提督は西インド諸島に帰り、フッドの追撃を受けながらイギリスの島々の攻撃を再開した。1782年の1月と2月に、ド・グラスはフッドの決死的な抵抗を排除してセントクリストファー島を占領した。フッドは劣勢の艦隊を率いながら、バセテールを根拠地としてフランス艦隊に何度も立ち向かった。フランスの次の目標はスペインと協働してジャマイカを攻撃することだった。サー・ジョージ・ロドニーが援軍を連れてイギリスから戻り、1782年4月12日のセインツの海戦に代表される一連の作戦行動によってその計画を頓挫させた。これ以後、西インド諸島では特記すべき作戦行動は行われていない。イギリス本国ではハウ提督が1782年9月と10月に包囲されていたジブラルタルをついに解放した。
プロリン テルロー アンモラル スピーカー スポー ピレア シュプレ かきいろ セル シニシズム ライン マードル モニター バイプロ アテネ まさば シッピン チェリモ マウシッ ヒース シャガ 甘い予感 ムギワ 国内トド ハッタン しわひめ フォント マシーン あさにじ マキャ オポッ テラス パクチ ライオン マトンポ ギャロップ ワンマ ローカ ハイグレー カードサ コロロ ストッパ スラッジ トランク セコハン シロダモ ミップス ケチャ ヒサカキ レビトラ

東インド方面作戦 1778年-1783年
アメリカ独立戦争の東インド方面への影響には、いくつかの別個の流れが存在する。1778年、フランスの参戦に直ちに対応したイギリスはフランスの植民地ポンディシェリーを難なく占領した。8月10日にはベンガル湾でイギリスの海軍士官の率いる部隊とフランスのM・ド・トロンジョリーとの間で小さな海戦があったが、この海域のフランス軍は攻勢に出るにはあまりに非力で、1782年の初めまでブルボン島(レユニオン島)とモーリシャス島にとどまっていた。

1781年春、フランスのピエール・アンドレ・ド・シュフラン提督が小戦隊とともに東洋に派遣された。彼はその途中、喜望峰をオランダから奪取すべく派遣されたイギリス艦隊がポルトガル領ポルト・プラヤに停泊しているのを発見し、4月16日、これを破った(ポルト・プラヤの海戦)。喜望峰の安全を確保した後、シュフランはフランス領の諸島に向かった。1782年、彼はベンガル湾のイギリス軍に激しい攻撃を仕掛けるべく、年の初めから活動を開始した。1782年の2月17日から1783年の6月20日まで、彼はイギリスのエドワード・ヒューズ提督とたびたび戦い、海域の制海権を確保した。彼には船を修理する港もなく、またインド・マイソールの太守ハイダル・アリーとの同盟も維持できなかったにもかかわらず、北東モンスーンの時期ですらフランス領諸島に戻らず、海を支配し続けた。シュフランは、ヒューズと戦いながらイギリス艦隊に甚大な損害を与え、1782年7月にはスリランカのトリンコマリーを占領した。

2009年02月14日

ぱすてるチャイム -恋のスキルアップ-

ルーベンス大陸のベルビア王国にある王立舞弦学園が舞台。主人公の相羽カイトは冒険者を目指して舞弦学園に入学したが、怠け癖が祟って一年後に控えた卒業も危ない状況である。そして初めてのダンジョン実習で起こったハプニングで、幼馴染のミューゼルを危険な状況にしてしまった事を悔やみ、無駄に過ごしてきた二年分を取り返そうと奮起するところから物語は始まる。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

相羽カイト(あいば カイト)
舞弦学園の三年生で冒険者志望の主人公。幼馴染のミュウと違い、怠け癖による成績不振に悩んでいる。ミュウと一緒に初めて潜ったダンションでモンスターに倒され、ロイドに助けられる。その時ロイドにミュウを守れなかった事を罵倒され、その事から強くなろうと決意する。ミュウと出会う前は、ラスタル王国に住んでいた。
続編では、たびたび名前が出てくることはあるがほとんど登場しない。(ファンディスクの「ぱすちゃC++」ではミューゼルと共に登場)。
ミューゼル・クラスマイン
神術士志望の女の子。種族はヒューマン。愛称はミュウ。カイトの小学校からの幼馴染で実家は隣同士(現在はカイトと同じ寮生活)。小中高とカイトと同じ学校だったが、高校三年生で初めて同じクラスになる。高校生詠唱コンクールで王国二位の実績を持っており、クラスメイトからも慕われる優等生。生き物を傷つけるという理由で魔法は一切習っていない。カイトの事を密かに想っている。生き物を傷つける事を嫌いながらも冒険者を目指しているのは、小学生の頃にカイトと交わした約束のためで、その約束の証としてカイトに貰った手帳を大切にしている。潜在的に魔法のキャパシティが大きい。
続編では、彼女のルートが正史扱いとなったため、カイトと共に新大陸であるコルウェイドを冒険している。
年齢: 17 身長: 160 3サイズ: 82/61/86 血液型: A型 誕生日: 6/26(蟹座)
コレット・ブラウゼ
カイト達のクラスに転入してきた、魔法使い志望の女の子。種族はハーフエルフ。転入初日、自分の事を憶えていなかったカイトに向かって攻撃魔法を放ち、クラスメイトと馴染みづらい状況になってしまう。しかし元々詠唱コンクールでミュウの詠唱を聞き、コレットがミュウのファンになっていた事もあって、ミュウとは初日から友達同士となる事ができた(隣の会場から聞こえてきたミューゼルの詠唱を聞いてファンになったので、当初顔は知らなかった)。父親が亡くなってしまい母親の実家に引っ越した為、光綾学園から舞弦学園に転入してきた。思ったことをはっきり言う性格でまた怒りっぽい為、カイトとよく言い争っているが根は優しい。カイトとはお互いに初恋の相手同士で、しかもハーフエルフであるため当時と容姿が殆ど変わっていなかったが、その事をカイトにはなかなか気付いてもらえない状況が続いた。(この件が、転入初日にカイトに魔法攻撃を放った原因)。
続編でも登場はするものの成長した姿での登場シーンは無い(ファンディスクでは、成長した姿で登場)。
年齢: 17 身長: 143 3サイズ: 66/51/68 血液型: B型 誕生日: 12/25(山羊座)
セレス・ルーブラン
カイトの同学年でスカウト志望の巨乳眼鏡っ子。種族はエルフ。おっとりとして天然でドジな性格の為、クラスメイトのグロリアと光代に虐められているが、そのことをカイトに指摘されるまで本人は虐められていると思っていなかった(嫌がらせは、自分のドジな性格に原因があると思い込んでいた)。セレスが使う弓の矢尻は飴で出来ている(一本だけ本物がある)。美術と植物に興味があり詳しい。水泳が苦手。首に鈴の付いたチョーカーを着けている。本人曰く「魔法が全くダメだったので、しかたなくスカウトを志望した」との事だが、スカウトとして技能は高い。美術部に所属しているため美術部顧問のロニィと仲が良く、ロニィから男の悦ばせかたなどを色々と教え込まれている。視力はかなり悪く、メガネがないと殆ど見えない。愛用のメガネフレームには祖母の名前(クリス・ループラン)が刻まれており、サイズが合っていない(よく落とすので)ことから、祖母から譲られた物ではないかと思われる。
続編では数年間プロ冒険者として活動した後に光陵学園の新人教師となり、主人公のクラス担任として再登場を果たす(同時に今作での隠しヒロインでもある)。
年齢: 17 身長: 158 3サイズ: 86/59/87 血液型: A型 誕生日: 4/15(牡羊座)
竜胆沙耶(りんどう さや)
カイトの同学年で戦士志望の女の子。種族はヒューマン。剣の腕はかなりのもので、クーガーによく勝負を挑まれては返り討ちにしている。状況判断も的確なので冒険者としての資質が高い。ダンジョン実習では技量の低い者ともパーティを組むので、パートナーの申し込みが殺到しているのだが、男女を問わず人間的に気に入った相手としかパーティを組まない。また行動は基本的に勢い任せで、やる気の無い者にはきつく当たるが、一生懸命なら足手まといの者でも絶対に見捨てるような真似はしない。ミュウの親友でミュウからは「さやちゃん」と呼ばれているが、本人は恥ずかしいらしく大半の友人には「竜胆」と呼んでもらっている。男勝りな性格だがカミナリが怖いなど女の子らしい一面もあり、結構ミーハーな所もある。妹が一人おり、彼女は十年後の世界が舞台の続編にメインヒロインとして登場する(詳しくはぱすてるチャイムContinueを参照)。
なお続編での沙耶はSクラスのプロ冒険者として大陸でもかなり有名な冒険者となっている。
年齢: 17 身長: 153 3サイズ: 78/56/83 血液型: O型 誕生日: 3/10(魚座)

サブキャラクター
小沢千佐人(おざわ ちさと)
舞弦学園の一年生。種族はヒューマン。女の子の様な顔立ちと名前だが男の子らしい。実家は剣術道場をやっている。学食で何故かメニューに載っているお子様ランチをよく食べている。隠しヒロインの一人。
ロイド・グランツ
カイトの同級生の少年。種族はヒューマン。騎士の家の生まれで、文武ともに優秀。容姿端麗。ミュウに惚れており、ミュウの幼馴染のカイトを目の敵にしている。ミュウの人形(自作?)を大事に持っている。
式堂甲斐那(しきどう かいな)
刹那の兄で謎の人物。種族はヒューマン。5月の雨の日にカイトに傘を借り、その傘を返しに来た時、成績不振に悩むカイトを見かねて、剣士としてカイトの特訓相手になる。
その正体は、一度死んだ肉体を魔王ラガヴリの手により蘇生され、支配された存在。カイト達とは今までの交流にから対立することを本心では望まなかったが、自分たちが生き続けるためにあえて対立し戦闘後刹那と共に死亡した。
続編では、黒猫に転生して同じく転生した刹那と共に登場する。
式堂刹那(しきどう せつな)
甲斐那の妹。種族はハーフエルフ。兄と共にカイトと出会い、術士としてカイトの特訓相手になる。
正体は、甲斐那同様ラガヴリによって支配された存在で彼女もまたカイト達との対立を望まなかったが、兄と共に対立しカイト達と戦闘。戦闘後甲斐那と共に死亡した。
続編のぱすてるチャイムContinueではエルフの少女に転生し、メインヒロインとして再登場する。
ベネット・コジュール
魔法担当の女教師でカイトのクラス担任。種族はエルフ。かなり説教じみているが、生徒思いの真面目な性格。
続編では学園を離れ、新たに光陵学園の学園長として再登場する。
バド・ウィケンズ
神術担当の老教師。種族はヒューマン。ボケているのか、カイトの名前をよく間違えたり、ふらふらダンジョンを徘徊したりしている。
レパード・ウォルシュ
戦士担当の教師。種族はヒューマン。熱血先生でよく自分の世界(BL?)に入ってしまう。
ロニィ・スタインハート
スカウト担当の女教師。種族はヒューマン。元怪盗でベネットの先輩。元怪盗時代のパートナーに双子の妹(ルビィ・スタインハート)がおり、彼女は続編に登場する。スカウト担当だけあってダンジョンに罠や宝箱などを仕掛けをしている他、アイテムの鑑定を有料で行っている。
実は、続編のファンディスクにおいて‘とある格好,で登場している(その際、一緒に登場した妹とのやり取りを見る限り、その姉妹仲は極めて良好なようである)。
ティオ・マーチェン
生徒が脱走しないように交代で校門の門番をしている体育教師。種族はヒューマン。体を鍛えるのが趣味で、一年中タンクトップで暑苦しさを周囲に振りまいている。何故かいつも笑顔。30回連続でお見合いを断られている。
ナリタ・キクエ
生徒達からはおキクさんと呼ばれている購買部のおばちゃん。種族はヒューマン。ミュウをいたく気に入っており、息子(35歳)の嫁にと誘っている。ダンジョンでも慣れた様子で動き回っており、底の知れない人。
陽子(ようこ)
カイトのクラスメイトでクラス委員長の少女。種族はヒューマン。ロイドに惚れており、何度もロイドを実習に誘っているが全て断られている。
クレア
カイトのクラスメイトで保健委員の少女。種族はヒューマン。戦いが嫌いでダンジョンにあまり行かない為、ベネットに注意されている。体育教師のティオに惚れている。大人しく地味な性格。
しんご
カイトのクラスメイトの少年。種族はヒューマン。人が良い為ロニィにいいように扱き使われている。
クーガー
カイトのクラスメイトの少年。種族はヒューマン。いつも沙耶に勝負を挑んでおり、何回も負ける内に卑怯な手を使うようになるが、仲間想いのいい所もある。
苅部(かりべ)
カイトのクラスメイト。種族はヒューマン。勉強ばかりしている。
光代(みつよ)
セレスのクラスメイト。種族はヒューマン。いつもグロリアと二人でセレスを虐めており、その事をカイトに注意されカイトの事を逆恨みして嫌っている。
グロリア
セレスのクラスメイト。種族はヒューマン。いつも光代と二人でセレスを虐めており、その事をカイトに注意されカイトの事を逆恨みして嫌っている。

2009年01月27日

ブーゲンビル島沖海戦

11月1日、連合軍は日本軍の拠点を避け、ブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾に襲来し、タロキナに上陸した。これに対し、日本軍はタロキナへの逆上陸を企図し、日本艦隊は15時30分にラバウルを出撃したが、その後、天候不良などから上陸困難と判断されて逆上陸は中止となり、輸送隊は引き返した。

一方、アメリカ軍は19時45分に偵察機が日本艦隊を発見、第39任務部隊はエンプレス・オーガスタ湾外で迎撃体制をとった。
シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

経過
この夜は霧雨で視界が不良だった。2日の0時27分、アメリカ艦隊はレーダーで日本艦隊を発見した。0時45分、日本艦隊もアメリカ艦隊を発見した。0時49分、アメリカ艦隊がレーダー管制射撃で砲撃を開始。日本艦隊の第5戦隊は照明弾を発射し、川内、時雨、五月雨が魚雷を発射した。0時52分、白露と五月雨が衝突、さらに1時07分に妙高と初風が衝突した。初風は航行不能となり、その後、アメリカ艦隊の砲撃により沈没した。また、川内も砲撃を受けて大破し、5時30分に沈没した。

アメリカ艦隊側はフートに魚雷が命中し、中破。体勢を立て直した日本艦隊はデンバーとスペンスを砲撃で損傷させたが、夜が明けると空襲を受ける恐れがある上、アメリカ艦隊が煙幕を張って転舵したことから有効打を与えたと誤認し、日本艦隊は退避した。

結局、連合軍のタロキナへの基地建設阻止は失敗した。この海戦後、大森少将は解任された。

参加艦艇

日本艦隊
連合襲撃部隊 指揮官 大森仙太郎少将(第5戦隊司令官)
第5戦隊:重巡「妙高」、「羽黒」
第1警戒隊:軽巡「川内」、駆逐艦「時雨」、「五月雨」、「白露」
第2警戒隊:軽巡「阿賀野」、駆逐艦「長波」、「初風」、「若月」* 輸送隊:駆逐艦「天霧」、「文月」、「卯月」、「夕凪」、「水無月」
沈没
「川内」「初風」

アメリカ艦隊
第39任務部隊
軽巡:「クリーブランド」、「コロンビア」、「モントピリア」、「デンバー」
駆逐艦:「オースバーン」、「ダイソン」、「スタンリー」、「クラクストン」、「スペンス」、「サッチャー」、「コンバース」、「フート」